このページは、村井理子著『家族』の補稿のページです。
本に書かれなかったエピソード、サイドストーリーを特別に公開します。
先日、ふと思い出したことがあった。私がICU(集中治療室)に入院していた七歳になったばかりの頃の話だ。
心臓手術を終えた私は、私の記憶が正しければ、二週間程度ICUに留まっていた。同室で同い年だった別の心臓病のふみちゃんは、私よりもずっと先に一般病棟に戻っていたが、なぜか私は取り残されていた。私よりもふみちゃんの症状が軽かったから、私の体力が戻らず、歩くことができないほど衰弱していたからと、随分あとになって母から聞いたことがある。歩くことができなくなった状況は、確かに私も記憶している。子どもなりにショックだった。
ICUには次々に患者が来る。数日滞在して、回復して一般病棟に移る患者がほとんどだったが、中には亡くなる人もいた。それは、夜中に起きたり、昼間に起きたり、様々だった。機器類から聞こえてくる慌ただしい音で、ああ、まただめなのかなと、あまり状況が理解できていないながらも考えたものだった。
ICUで過ごす時間は、決して楽しいものではなかった。重々しい、緊張した空気。一般病棟にいるときのように、看護師さんは声をかけてはくれない。動いてはいけない、あまりしゃべってもいけないと言いつけられて、私は徐々に気力を失っていった。唯一楽しみだったのは、二日に一回、母が白いガウンのような衣類を身につけて、食事時にICU内にやって来ることだった。その時だけ、私は母と直接会うことができた。だから、私はその時間をただただ楽しみにして、辛いことすべてを我慢していた。
ある日、看護師さんが、お母さんは来ることができなくなったと言った。「お母さんが風邪を引いてしまったんだよ」と説明してくれた。今のあなたはとても弱いから、お母さんから風邪がうつってしまったら大変。だから今日は看護婦さんで我慢してね、一緒にごはんを食べようねと言われ、私は泣いた。大いに泣いた。最後の方は、特に悲しくもないのに大声を張り上げた。そうすれば、わがままが通るとすでに理解していたからだ。
ICUに泣き叫ぶ子どもがいたら、そりゃあ困る。どのような話し合いが行われたのかわからないが、母がICUの大きなガラス窓の向こうに申し訳なさそうに現れたのは、それから数時間後のことだった。母の横にはニコニコ笑う兄もいた。
母は少し困ったような表情で私に手を振った。当時小六だった兄は、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、おーい! おーい! と大声を出していた。母にパシッっと後頭部を叩かれ、ゲタゲタ兄は笑って、口元に人差し指を当てて、しーっとやって、また笑った。母が風邪を引いたことに腹を立てていた私は、どうにかして母を困らせてやろうとニコリともせずに母を睨んでいたが、兄がおどけるものだから、どうしても笑ってしまう。兄は、そんな私を余計に笑わせようと、踊り、飛び跳ね、顔を窓ガラスに擦りつけた。兄の笑った顔が醜く歪む。豚みたいだ。私が笑うとますます兄は笑い転げて、真っ赤な顔をガラスに押しつけ、白目をむいた。汚れた両手をべったりガラスについて、次々と変な顔を見せるという捨て身の行動で、ICU内部にいた人たち全員を笑わせた。兄の腕を引っ張って、どうにか止めさせようと必死だった母。そんな二人の姿を、四十年以上も後になって、ふと思い出した。
二人がこの世にいなくなってから思い出すなんて、あんまりだ。せめて十年前に思い出すことができていたら、少しは二人に歩み寄ることができたのに。