このページは、村井理子著『家族』の補稿のページです。
本に書かれなかったエピソード、サイドストーリーを特別に公開します。

SPECIAL CONTENTS :「家族」補稿 2

「家族」のあとで

『家族』(亜紀書房)が発売となった。古くからの知り合いも早速読んでくれたらしく、また、いつも一緒に仕事をしている編集者のみなさんからもメールなどで感想を頂いて、本当にうれしく思っている。改めて、書いてよかったと思う。

 読む人によっては衝撃的な内容かもしれないし、自分の家族のことを思い出して辛い思いをする人がいるかもしれない。どんな人にも家族への苦い思いはあるはずだ。むしろ「書くことができない」ほど、辛い経験をしている人も多いかもしれない。家族というのは、そういうものだと思う。

 本書については、とても淡々と書くことができた。頭の中では何百回も考えてきたことだし、特にここ数年は自分のなかで答えが出ていたことでもあり、それをきれいに整理できてよかったと思っている。

 私は複雑(かもしれない)家庭環境で育った犠牲者ではなく、犠牲者の可能性があるのは、むしろ私以外の人たちだ。父は若くして亡くなり、母は育てにくい子どもに翻弄され、兄は誰にも理解されない状況から抜け出せないまま亡くなっている。私の家族のなかで、私だけが全ての困難をかいくぐり、今も生きている。溺れそうになる私を、水流に呑まれながらも岸に辿りつかせたのは、今はもうこの世にいない三人なのではと思う。だから、そのことを残さねばならないと思って書いた。

 状況が違えば、環境が整っていたら、きっと同じ最後にはならなかったのではないかと思う。早い時期に誤解を解いていれば、こじれる前に話し合っていれば、状況は改善できたに違いない。でも、結果的にそうはならなかった。そこが家族という集団の難しさであり、私の失敗だ。私の大いなる失敗の物語を読み、みなさんがどう感じるか、私も知りたい。是非、感想を寄せていただきたい。

 いずれにせよ、私自身は、狭くて古いアパートで一緒に暮らしていた彼らに対する最大の感謝を込めて書いたつもりだ。母にとっては辛辣な内容で、もし生きていたら激怒されそうだが、それでも、激しい人生を生きた同じ女性として、常に自分を後回しにし、周囲の人間を助け続けていた母に対する親愛の情を込めた。父のことは、別れがあまりにも早く、多くを書くことができなかった。でも、今も元気で暮らす父方の親戚に、私の気持ちが届けばうれしい。兄については、複雑な気持ちを抱きすぎていて、どう表現したらいいのかわからない。ただただ、兄が今となっては静かな世界にいるという事実で納得するしかない。

 表紙カバーの写真が私たち家族の多くを物語っている。カメラを真っ直ぐ見る父、膝に座らせてもらい、うれしそうにはにかんでいる兄、私を抱きながらも、視線を兄に注ぐ母。ボロボロのアパートで静かに暮らしていたこの家族の最終形態が、たった一人残ったのが、私なのだ。