このページは、村井理子著『家族』の試し読みのページです。
(一部抜粋)
アラレと呼ばれていた中年女性が母と同居しはじめたのは、祖母が施設への入所を果たしたタイミングだったはずだ。母は私にはなにも言わず、五十代前半の女性を実家に住まわせた。それだけではない。母はアラレを自分の店で働かせ、後に別の小さな店をオープンして、そこで店長として雇った。私はこのアラレという女性とは一度も顔を合わせたことはない。実家に電話をすると、決まって電話に出る。母がいるかどうか尋ねると、なにも言わずに母に替わるこの女性に対し、不信感だけが募った。なぜ得体の知れない女性を家に引き入れるのか、正気の沙汰ではないと母には繰り返し伝えた。私が実家に戻らないのは、戻りたい気持ちになれないのは、その女性が原因でもあると率直に言った。それでも母は、またもや曖昧な答えしかしなかった。一人で暮らすには寂しいから、いろいろな用事を片付けてくれるから。そんなことが理由だった。
兄もアラレには不信感を抱いていた。
「会っても挨拶ひとつしねえんだよ、あいつ」と文句を言う。
「どんな人なの?」
「普通のおばさんだよ。昔はさかなセンターで働いていたらしい。今もどこかで働いているみたいだけど、俺も詳しくはわからない。俺が実家に行くと、逃げるからな」
いかにも訳ありの女性を、簡単に家に引き入れて同居までする母の異常な感覚。私はそんな母を理解できず、やがて恐怖を感じるようになり、母とは金輪際、うまくやっていけないと思うに至った。それでも母のことは嫌いにはなれなかったが、父が亡くなって間もなく別の男性と交際を始めた母に、私が戻るはずの場所を赤の他人の女性に与えた母に、落胆していたのだと思う。父が亡くなってからというもの、母との関係を再構築する気持ちは徐々に消え失せた。兄とはそもそも会う機会も限られていたし、結婚後の兄は落ちついているように見えたから心配するまでもない。このまま私は関西で暮らそう。知らない女性が住む実家に戻る必要はない。女性は実家の一階で暮らし、母は二階の私の部屋で寝起きしていると聞いた。私が部屋に置いていた荷物は、すべて処分されたとも人づてに聞いた。私は荷物と共に母に捨てられた。私は故郷から、実家から、家族から離れる決意をした。母もそれに気づいただろう。次第に連絡が途絶え、実家の様子はほとんどわからない状況になった。
アラレと呼ばれた女性はそれから数年間、実家に住み着いたようだ。その間、私は、実家に戻らなかった。たまに電話をすると彼女が出て、母に電話を替わったことが数回あっただけで、結局、アラレというその人物の姿は今でもわからない。母と仲のよかった親戚にアラレについて聞くと、「まともな人ではなかった」という答えが返ってきた。ただ、母が病気になり、生活が立ちゆかなくなった直後、アラレは実家を突然出ていった。母が残した手帳には、こんな記述が続く。
(中略)
なぜ母は、得体の知れない女性を実家に住まわせたのだろう。私にはどうしてもその理由がわからなかった。兄は私に一度だけ、その理由めいた話をしてくれたことがある。母は実家にアラレを住まわせ、いくばくかの家賃をもらっていたそうだ。その家賃を、そのままそっくり近藤に渡していた。
アラレの存在が、私と母の間の溝を決定的にした。誰が悪いわけでもない。ただ、それが事実というだけだ。