このページは、村井理子著『家族』の試し読みのページです。

Sample Reading 試し読み
第三章

栄町一丁目 母の実家

(一部抜粋)

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 不思議なことに、兄は料理が得意な人だった。どこで調理の仕方を覚えたのかわからない。母は一度も教えたことはないという。それでも兄は、大きな中華鍋を大胆に振って、チャーハンも焼きそばも、とても上手に作った。「かあちゃんが作るより、俺が作ったほうがうまいぜ」といつも言っていた。私も兄の大胆な料理が大好きだったし、兄が大きい体で狭いキッチンに入り、冷蔵庫から余った野菜をかき集め、見事に料理する姿を見るのが好きだった。それをどんと威勢良くテーブルの上に置く。祖母が喜んで、手を叩く。そんな祖母を見て、兄も笑顔を浮かべるのだった。
 兄は私が作る料理についても、手放しで褒めてくれた。私が根菜の煮物を作ると、うれしそうに米を研ぎ、炊き、もりもりと食べた。


冷凍の野菜でもこんなに上手に煮ることができるんだな。
おまえは天才じゃねえか。
かあちゃんの煮物よりもずっとうまいよ。
才能あるぞ、もっともっと作ってくれよ。
それから、おまえがこの前教えてくれたテニスのコーチの話、もう一度聞かせてくれ! おまえの話は最高に面白いから。


 兄はきっと、私のことが好きだったと思う。私が兄を好きだと思う気持ちの、きっと何十倍も。

 二年前、兄が亡くなるその日まで住んでいたアパートに、後片付けのために入ったことがある。冷蔵庫を開けてみると、手作りの漬物、カレーの鍋、味噌汁の鍋、消費期限を越えた豆腐などがごちゃごちゃと入っていた。野菜室にはたっぷりの玉葱。冷凍庫にはタレ付き焼き肉と餃子。兄はあの頃と変わらず、得意料理を作っていた様子だった。キッチンを見ると、大きめの鍋やフライパンが積み重ねられていたものの、下に行くにつれ、調理器具には埃が積もっていた。しばらく使用された様子はなかった。
 吊り下げられた計量カップやおろし金。何種類も並べられた食器洗い用洗剤。ザルや漉し器といった細かい道具。五十代男性のキッチンにしては、道具が豊富にあり、一時はしっかりと調理していた様子がうかがえた。ただ、きれい好きだった兄にしては信じられないほど、すべてが油にまみれていた。手拭き用タオルが真っ黒に汚れていた。以前の兄であれば、ありえないことだ。それであっても、兄がこのキッチンで作っていたのは、あの頃私に作ってくれていたものと、ほぼ同じだろうと考えた。調味料の数の多さ、器の種類の多さ。兄のキッチンにあったもの全てが、兄がぎりぎりの状態であっても料理していたことを物語っていた。それではなぜ、兄は転落してしまったのだろう。どうして自分の体を痛めつけるような、まるで緩慢な自殺のような生き方をしてしまったのだろう。もしかしたら、兄は自立する方法を知らなかったのではないか。四十年以上も、困ったときに差し伸べられた母の手を、母の死後も、兄は待ち続けていたのではないか。もしかしたら、母がどこからか奇跡を起こし、自分を助けてくれると思っていたのではないか。

 四リットル入りペットボトルには、焼酎が半分ほど残されていた。キッチンの床にはインスリンの注射器と、足にできた潰瘍に塗る軟膏が何本も転がっていた。