このページは、村井理子著『家族』の試し読みのページです。

Sample Reading 試し読み
第三章

栄町一丁目 母の実家

(一部抜粋)

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 社宅から母の実家に引っ越すという提案を父が了承したのは、すでに母方の祖父が他界していたからだろう。祖父と父は当然のように折り合いが悪く、ほとんど会話することもなかった。祖父は晩年になってようやく父を認めたようだったが、私から見ると父と祖父の関係は時に険悪だったように思う。そんな祖父が癌で亡くなり、祖母と体が不自由だった叔父の二人暮らしになると、母は父に頼みこみ、実家に引っ越すことを納得させた。父は無愛想な人だったが、決して冷たい人ではなかった。困った人がいれば、黙って面倒を見た。父と父が勤めていた会社の社長の折り合いが悪くなったのも、社宅からの引っ越しを決めた理由の一つだっただろう。
 引っ越しの直前、どうしても忘れられないできごとが起きた。私と兄が大事に飼っていたつがいのオカメインコを、母が勝手に逃がしたのだ。学校から戻ると、母が玄関で鳥かごにホースで水をかけていた。驚いてオカメインコの行方を尋ねると、「友達にあげた」と答えた。私はどうしてもそれが信じられなくて、母に何度も確認した。友達にあげたとは? 私と兄が大事に飼っていたオカメインコの太郎と花子を、一体誰に渡してしまったというのか。母はあの、いつもの曖昧な表情でなにも言わずに、憮然として鳥かごを洗い、そして、すべて忘れなさいと目も合わせずに言った。母が噓を言っていることはわかっていた。誰かにあげるわけがない。誰かが欲しがるわけもない。母はなにか理由があって、鳥かごを開け、太郎と花子を空に放ったのだ。つい先日までこの残酷な行いの意味がわからなかったが、父方の叔母と話をしていた時ふと気づいた。私が割ったガラスの代償が、オカメインコの太郎と花子だった。母にとってオカメインコは引っ越しの邪魔だったのだ。
 私は母のこういった行いを何度も見てきた。事実だから、自分の妄想だと、頭のなかで作り上げた間違った記憶だと誤魔化すことはできない。母が気の毒だからと、許す気にもなれない。母は猫を捨て、犬を捨て、鳥を捨てる人だった。なぜそんなことができたのか、それは私には理解できない。
 母の実家に引っ越すことについて、私は断固として納得しなかった。どうしても嫌だった。社宅も好きではなかったが、母の実家はもっと好きではなかった。母の実家の建物は、元々は小さな旅館で、旅館といっても小規模な建物の中に、妙に狭い部屋がいくつも並んでいるような奇妙な造りで、まるで遊園地にあるミラーハウスのようだった。バーを閉店した祖父が選んだのが、自分の住まいを改築しての旅館経営だった。船乗りがふらりとやってきては宿泊する。廊下に貼られた奇妙な色のタイルと階段に敷かれたえんじ色の絨毯。すべてが擦り切れ、古ぼけていて、不気味で、建物自体が歪んでいるように私には見えた。玄関に設置された大きな姿見に映る蛍光灯の青白い明かりが私を不安にさせた。何百人もの宿泊客が入った狭い風呂の浴槽は、まるで古木の樹皮のようにひび割れていた。薄暗い食堂には油のこびりついたスチール製の折りたたみ椅子が並んでいた。